武蔵村山市 かぶと橋 散策
2016-03-15 武蔵村山市 かぶと橋 散策 1時間30分 晴れ
昨日の雨が上がり良く晴れた火曜日、武蔵村山市のかぶと橋に行ってきました。かたくりの湯(市立公園)の駐車場に車を置いて。
今日の目的は3つ
・そろそろカタクリの花が咲いているかも。
・案内図にあるかぶと橋に行ってみたい。
・村山うどんの玉を買って帰りたい。
駐車場→市立野山北公園→尾根道→武蔵野の路→かぶと橋→武蔵野の路→ 駐車場
そして、
・カタクリの花はまだ蕾。水芭蕉の花はもう終わり。
・さまよって歩くうちに、中藤公園整備中の看板あり。
・かぶと橋は、カブトムシが飾られたものと知る。
・村山うどんは小平かてうどんのルーツと思われる。
このあたり、市立野山北公園、都立野山北・六道山公園、瑞穂町立六道山公園、埼玉県所沢市のさいたま緑の森博物館が隣り合って、広大な緑のエリアとなっています。
少し広域で見ると、
東京都の水がめ、狭山湖や多摩湖を囲むように、緑地が散らばっているのがわかります。
狭山丘陵とは、
日本の関東平野西方、埼玉県と東京都の都県境に東西11km、南北4km、総面積約3,500haの規模で広がる丘陵である。周囲は武蔵野台地となっている。
埼玉県所沢市・入間市から、東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町に跨っている。狭山湖(山口貯水池)・多摩湖(村山貯水池)の水源保護林があったために、広域の里山の環境(景観を含む)が保持されている。
武蔵村山市の歴史は
大正時代に「中藤村、横田村、三ツ木村、岸村」が合併して村山村となり、昭和45年に武蔵村山市となる。
村山の名前は平安時代末期に登場した武蔵七党のひとつ「村山党」に由来し、市制施行時に山形県村山市と同名となるのを避けた。
江戸時代は、
砂川村(立川市砂川町)をはじめ、小川村(小平市)、中藤新田(国分寺市)は、村山の人々によって開発されたものです。
散歩道が多数、いずれ歩きたい・・・

昨日の雨が上がり良く晴れた火曜日、武蔵村山市のかぶと橋に行ってきました。かたくりの湯(市立公園)の駐車場に車を置いて。
今日の目的は3つ
・そろそろカタクリの花が咲いているかも。
・案内図にあるかぶと橋に行ってみたい。
・村山うどんの玉を買って帰りたい。
駐車場→市立野山北公園→尾根道→武蔵野の路→かぶと橋→武蔵野の路→ 駐車場
そして、
・カタクリの花はまだ蕾。水芭蕉の花はもう終わり。
・さまよって歩くうちに、中藤公園整備中の看板あり。
・かぶと橋は、カブトムシが飾られたものと知る。
・村山うどんは小平かてうどんのルーツと思われる。
このあたり、市立野山北公園、都立野山北・六道山公園、瑞穂町立六道山公園、埼玉県所沢市のさいたま緑の森博物館が隣り合って、広大な緑のエリアとなっています。
少し広域で見ると、
東京都の水がめ、狭山湖や多摩湖を囲むように、緑地が散らばっているのがわかります。
狭山丘陵とは、
日本の関東平野西方、埼玉県と東京都の都県境に東西11km、南北4km、総面積約3,500haの規模で広がる丘陵である。周囲は武蔵野台地となっている。
埼玉県所沢市・入間市から、東京都東村山市・東大和市・武蔵村山市・西多摩郡瑞穂町に跨っている。狭山湖(山口貯水池)・多摩湖(村山貯水池)の水源保護林があったために、広域の里山の環境(景観を含む)が保持されている。
武蔵村山市の歴史は
大正時代に「中藤村、横田村、三ツ木村、岸村」が合併して村山村となり、昭和45年に武蔵村山市となる。
村山の名前は平安時代末期に登場した武蔵七党のひとつ「村山党」に由来し、市制施行時に山形県村山市と同名となるのを避けた。
江戸時代は、
砂川村(立川市砂川町)をはじめ、小川村(小平市)、中藤新田(国分寺市)は、村山の人々によって開発されたものです。
写真は、クリックすると大きく見られます。
散歩道が多数、いずれ歩きたい・・・

(ルートあり)