長野県佐久市 岩村田の上の城跡
2014-06-09 長野県佐久市 岩村田の上の城跡 1時間20分 曇り
軽井沢町は雨の月曜日、佐久市の岩村田あたりを散策しました。しのはら形成皮ふクリニックの時間待ちに。岩村田宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場。
クリニックからリンゴ畑のそばを通り、岩村田歩道橋を渡ると明治22年から昭和47年まで岩村田小学校のあった所「旧岩村田小学校跡地」に出ます。今は緑地公園になっています。そこからは南東方向へ、ひたすら木々の茂みのある丘を目指して歩いていくと上の城に行きつく。岩村田小学校は昭和47年から上の城にあります。
ウィキペディアによると、
岩村田藩(いわむらたはん)は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩で藩庁は岩村田陣屋。藩主家は内藤氏。1万6000石、無城(陣屋)の大名であった。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵する。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。岩村田県は長野県に吸収された。
岩村田公園内に招魂社があり、藤城神社があります。藤城神社のある上の城跡から、岩村田を望みます。小学校の周りを歩いているうちに、水の流れる音が聞こえました。常木用水(つねぎようすい)へは通行禁止となっています。常木用水は市川五郎兵衛(江戸初期の新田開発者)が江戸時代に作った農業用水のようです。
そののち、岩村田方面に戻り、内藤家の菩提寺の西念寺まで行きました。信濃岩村田藩の第5代藩主、岩村田藩内藤家6代、内藤正国の墓所がお向かいにあります。
調べて行くと・・・

軽井沢町は雨の月曜日、佐久市の岩村田あたりを散策しました。しのはら形成皮ふクリニックの時間待ちに。岩村田宿は中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場。
クリニックからリンゴ畑のそばを通り、岩村田歩道橋を渡ると明治22年から昭和47年まで岩村田小学校のあった所「旧岩村田小学校跡地」に出ます。今は緑地公園になっています。そこからは南東方向へ、ひたすら木々の茂みのある丘を目指して歩いていくと上の城に行きつく。岩村田小学校は昭和47年から上の城にあります。
ウィキペディアによると、
岩村田藩(いわむらたはん)は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩で藩庁は岩村田陣屋。藩主家は内藤氏。1万6000石、無城(陣屋)の大名であった。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵する。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。岩村田県は長野県に吸収された。
岩村田公園内に招魂社があり、藤城神社があります。藤城神社のある上の城跡から、岩村田を望みます。小学校の周りを歩いているうちに、水の流れる音が聞こえました。常木用水(つねぎようすい)へは通行禁止となっています。常木用水は市川五郎兵衛(江戸初期の新田開発者)が江戸時代に作った農業用水のようです。
そののち、岩村田方面に戻り、内藤家の菩提寺の西念寺まで行きました。信濃岩村田藩の第5代藩主、岩村田藩内藤家6代、内藤正国の墓所がお向かいにあります。
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調べて行くと・・・

(動画あり)